演 目
新春若手歌舞伎
観劇日時/06.1.4
『鳴神』
『仮名手本忠臣蔵・五段目・六段目』
劇場/東京・浅草公会堂

様式美の極致

 歌舞伎という舞台芸術を見慣れないと、そのテンポの悠長な展開についていけずに退屈してしまうことがよくある。僕自身にもそれはある。特に浄瑠璃がつく場合、えてして説明になってしまい、しかもよく知っている物語であると却ってその説明が邪魔に感じられる場合が多い。
だが歌舞伎という表現は、時間と心理とを極限まで拡大して細部まで顕微鏡のごとくさらけ出して見せる表現芸術なのであろうか……
登場人物の心理や、他の人物たちとの心理の交錯とを、時間を引き延ばして、そのとことんまでをも拡大してみせる技術としての表現芸術なのかもしれない。そしてそのためにもさまざまな様式や約束事が生まれてくる。極端な誇張や省略が生まれてくる。
だからそういうことが判ってきて、そういうことを了解して、それが巧く使われていることが判ってくると俄然面白くなってくるのだ。そうなるまでには時間が掛かるし、慣れるしかない。
そういう眼で観ていると、マスコミで人気の中村獅童や七之助・勘太郎などが、その人気に溺れず真摯に役に取り組んでいるのが好感がもてるのだけれども、やっぱり『鳴神』の男の業にしろ、『忠臣蔵』の義理に殉じたり人情を大事にする世界の美しさにしろ、この表現のもって回ったまどろっこしさには、まだまだ慣れないのだ。
『鳴神』の中村獅童は、TVのCMや現代劇でみせる、あの格好よさとはまた一味違った別の格好よさであり、これだけ強烈なメイクアップをすると、画面で見慣れた獅童とは言われないと分からないほどの別人に見える。
その別人・獅童は、いわゆる荒事の表現を豪快に痛快に切れ味よく演じて小気味がよい。いかにもこれが歌舞伎の荒事芸だと納得できる見事さである。こういう人気者がこういう舞台を見せて、若い人たちに歌舞伎が受け継がれていくと面白い。
やはり人気抜群の中村勘太郎・七之助の兄弟が、『仮名手本忠臣蔵』五段目「山崎街道鉄砲渡しの場」「二つ玉の場」六段目「与市兵衛内勘平切腹の場」で、早野勘平と女房おかるの二役を昼夜交代で演じた。
僕が観たのは昼の部で、勘平は七之助だったが、この長い辛抱の場面をじっくりと、まさに時間を極限まで延ばしてその心理の動きを克明に追っていった。若さの熱気が感じられて好感がもてるが、『鳴神』で篭絡をはかる雲の絶間姫(=市川亀治郎)もそうだが、現代劇になれた目にはどうにも説明的で退屈する。
この市川亀治郎や、中村亀鶴・市川男女蔵など凛々しい若い歌舞伎俳優がたくさんいるのが頼もしく思われる。こういう伝統演劇で培われた演技力・表現力をもって、これらの俳優さんたちは、歌舞伎の舞台に限らず、現代演劇の舞台に積極的にどんどん参加し、その刺激剤になって欲しいと思うのである。