演 目
泣かないで
観劇日時/05.2.26
第21回北海道拓殖大学ミユージカル公演
原作/遠藤周作

脚本・作曲・音楽監督/土門裕之

演出=前田順二/ダンス指導・衣裳・メイク藤井綾子
舞台監督/野村眞仁
ボイストレーナー=山本徹淨
照明=河野哲男(オフイスカワノ)
音響=富田雅之(ウイークエンド)
教員スタッフ=土門裕之・山田克己・川端美穂・岡健吾
舞台美術指導=藤村健一
劇場/
深川市文化交流ホール み・らい


神の不在という不条理

 遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」の劇化。拓大ミユージカルは20年間ずっと童話あるいは寓話的なファミリィ路線ばかりやってきた。中心が保育科の学生ということもあって、それなりの選択ではあったのだろうが、やってる学生たちにも、大人の観客にとってもやはり物足りない思いのあったことも事実であろう。
 
そんな中で今回おそらく初めてこういう作品を取り上げたのは新しい試みへの挑戦ということで、大いに歓迎したいのだ。
 
といって、ファンタジックなファミリィ路線がダメだというわけじゃ勿論ない。例えば一年交替とか、できれば別々の方向性をもった作品を年に2回上演とかが出来ないのかなと思うわけだ。
 
20年の蓄積があるから大道具などの使いまわしも可能であろうし、舞台を創り上げていくノウハウも当然整ってきているのだろうから、あながち夢想でもないと思われるのだが、大学はミユージカルだけやっているわけにもいかないのだろうか?
 
さて舞台成果。やっぱり一番感じたのはテンポの異常な遅さだ。こういう重い主題の劇的展開をこのテンポで演じられると、陰隠滅滅として情緒の低い部分の涙腺を無意味に刺激する。冷静に反応する理性を押しやろうとする力に負けそうになる。
 
もともとミユージカルには難しい題材だ。どこを重点的に盛り上げるかの視点が弱く、主人公の少女に必要以上に感情移入し過ぎたようだ。
 
遠藤作品は、神の不在と思われること、そのこと自体も神の摂理というベースで描かれている。神の摂理とは、不幸に苦しみ悩み恨むだけでは何事も解決しない、現実をあるがままに受け入れて精一杯に生きることであろうか? そこをきちんと描かないと単なる神の否定とミツへの憐憫の情だけの底の浅い人生観になりかねない。その辺の視点がまだ不充分だと思われる。
 
神の存在する世界は、常に公平であり条理の世界であるという観点からみれば、神の不在は不条理の世界といえるのであろうか?
 
普通、不条理の世界といった場合、条理に反するというイメージから、明るい展望のない世界を想定する。しかし森田ミツについてはどうであろうか? ミツの存在は、ほとんど現代的な不条理が生じる以前の、神の不在という根源的な不条理の世界の存在である。だが悲嘆と絶望のその死を僕らが知っても、最後まで生き切った森田ミツに僕らは救われる。
 
カミュによれば「不条理から眼を逸らさずに最後まで不条理と闘い反抗しながら生きることに、人間の尊厳や自由がある。」ということであろうか?
 
ラストにかけての山形の手紙の処理が単調すぎた。あの部分を実際に時系列にそって舞台上に劇として展開するととっても長くなるとは思うが、単に山形の声だけを陰ナレで聞かせて、舞台上ではそれを絵解きするだけというのは余りにも演劇的ではない。
 
むしろ前半をもっと刈り込んで、ミツが最後に偶然とはいえ死地に赴く部分を何とか演劇的表現に、そして神の摂理としての展開、森田ミツの人間の尊厳と自由への闘いという観点から表現して欲しかった。
 
新しい境地へ向かう拓大ミュージカルの勇気は大いに今後を期待させるものがある。それにしてもミュージカルには難しい題材を取り上げたものではある。