演 目 きのうのあした 観劇日時/05.1.22 劇団名/ふかがわ市民劇団 公演回数/第11回公演 作・演出・美術・選曲/渡辺貞之 装置/溝口信義・桜庭忠雄 衣装/山上佳代子 舞台/清水真由美・村上義典・大野将介・千葉妙香 その他劇団員総員 劇場/深川市パトリアホール |
市民参加劇の功績 自分の所属する劇団のことを書くのはたいへん難しい。裏の事情をよく知っているし、どうしても贔屓目に見てしまうからだ。だから今まで書く気になれなかったというよりも、書くという発想をもたなかったのだ。 それが今度、思い切って書こうという気になった理由の一つは、この舞台成果が非常に優れていたのと、もう一つは僕自身が製作に専念して舞台のことについては全くといっていいほどノータッチという状況だったことがあった。 この劇団は深川市の全面的な委嘱によって運営され、舞台が創られているが、行政は金は出すが口は出さないというきわめて理想に近い形で産まれてから今年で11年目になる。そのすべては主宰の渡辺貞之のオリジナルであり、僕が「フアンタジック・メルヘン」と名づけるファミリー路線である。 入団希望者は全員無条件で一緒にやるということだから、劇団員が下は6歳から上は70歳で、高校生以下が35人、一般成人が25人というメンバー構成では必然的にそういうストーリィにならざるを得ないのだ。今回もそれを踏襲している。 例によって物語から紹介しよう。僕の視点から物語を説明するということは、僕がこの芝居をどう観たか? ということになると思うし、この舞台を観なかった方に対して、どういう舞台であったのかを感じてもらう大切なことだと思うのだ。さて話は…… 一人の老人がある病院で療養している。目の手術をした少女(アヤカ)と病院の院長の娘(メグ)とのフトした会話の中に出てきた妖精のピキの話で、老人は60年前のことを思い出す……。老人(テツオ)の少年時代はあの戦争の真っ最中であった。大きな街から戦火を逃れて田舎の小さな農村に転校してきた少年テツオは、初めての田舎暮らしに中々馴染めない。「チンケナテッチン」と呼ばれて仲間はずれにされていたとき、ピキと名乗る小妖精が現れて「テッチン」を励まし助ける。 テッチンの所為ではないはずなのに、仲間の大事な大クワガタを殺した犯人にされたときは、学校の裏手にある大きな井戸の主「イドノアネサ」たちに掛け合ってクワガタの魂を取り戻す。 タブーであった「コンコンサマ」というお社の真っ赤な鳥居に凭れ掛かってお狐さまたちの怒りに触れ、処刑されようとしたときは、狐たちの弱点をうまく突いて命拾いをしてやる。 そして一人だけ心を開いてくれたショウスケが、子どもが一人で行ってはいけない子隠山へ入って谷へ転げ落ち意識不明になったときには、子隠山の守り神である3人の山ん婆たちと掛け合ってショウスケの魂を取り戻す。 そんなことがあって、やがてテッチンは村の言葉を使うようになり仲間入りが認められる。 テッチンはピキにお礼をしたかった。遠慮するピキだが、最後に「傘が欲しい」という。実は「イドノアネサ」にも「コンコンサマ」にも「山ん婆」たちにも、代償としてテッチンは大事な傘を次々と差し出していたのだ。だから傘はもうない。ピキはなぜか傘に執着していた。 物のない時代だ。テッチンは今すぐは無理だけどきっと傘を持ってくると約束する。だがもう村の子どもたちと遊び始めたテッチンには約束を忘れている方が楽だった…… それから60年経って今、老人になったテッチンはその約束を思い出したのだった。いや忘れていたわけじゃない。いつも気にしながら約束を果たすチャンスを先延ばししていたのだ。もう動けないテッチンはメグに一番大事な傘をピキに届けてくれるように頼む。 やっとピキを探し出したメグに、ピキは「60年待っていたよ」と喜び、「オレの姿は大人には見えないんだよ、お前たちもソロソロ大人になりかかっているからな……」といいながら、使いのメグたちの前から茫漠と消えていく。 病院へ戻ったら、目の手術を終わった少女の包帯を取るときだった。目を開くことを怖がる少女に向かってメグは言う。「きっと見えるよ、ピキが見えるよ」。 こわごわと目を開いた少女は、ジッと遥か遠くを見つめてつぶやく。「見えるわ、ピキが見える」。 この物語には原作がある。作者の渡辺貞之によると、手塚治虫の初期短編「雨降り小僧」がモチーフになっているという。早速「雨降り小僧」を読んでみたが、それは子どものころ約束した雨降り小僧に60年経ってから長靴を届けたという話で、そこのところだけしか同じところはない。 さて舞台だが、出演の子どもたちが実に生き生きとしている。60年前の小学校の子どもたちは10人くらいか? 時代考証はそれほど厳密ではないが、その子達は小学3年くらいから中学1年くらいまで混在している。複式学級とも見えるがそういう具体性を抜きにして、経験の長い年長の子達が要所要所を締め、経験の浅い子達をうまく誘導して見事なアンサンブルを作っている。 テツオが初めて転校生としてこの教室に入ってくる場面は「風の又三郎」を彷彿とさせた。 先生は身長の高い女の子が演じたが、ちょっと幼い感じ、これは大人の俳優が演じた方がバランスがよかったと思うが…… 「イドノアネサ」「コンコンサマ」「山ん婆」の三つのグループは、大人の役者たちが演じたがこれはさすがに演技力がしっかりしていて物語の要所要所をよく魅せていた。 狂言回し的なピキを大車輪で演じた小学1年生は、自分の役どころをよく心得た大変な才能であるが未だ原石だ。役を意識しすぎて変に力んだり、イントネーションに妙な癖がついて大事な台詞が判然としなかったりする。 勘がよく器用なことがよく感じられ、それがこましゃくれて厭味だと思う人もいるかもしれないが、素直に大事に育って欲しいと思う。 出演希望者は全員出演させるというポリシーであるから、物語に直接不要であると思われる役もたくさん作って膨らませ、2時間という長丁場になってしまったが、それほどダレた感じはなかった。精一杯熱演しながらも自分の役柄をキチンと抑えて、抑制を効かせた子どもたちの演技が心地よかったからであろう。 ラストシーンで「見えるわ、ピキが見える」と少女がつぶやくと、明転のまま背景の黒幕が揚がり出演者一同が整列していて爽やかな照明に明々と浮かび上がる。そのとき僕はこの老人と同じ年齢であり、僕にはピキがもう見えないのではないだろうか? と思うと不覚にも胸が熱くなり眼が滲んだ。 カーテンコールは、そのまま全員で三方礼の後、傘を差したピキを伴った主任俳優が出て簡単なお礼の挨拶、最敬礼のまま静かに緞帳が下りるというすっきりと洒落た演出が快い。市民参加劇によくある長ったらしい苦労話の挨拶やら出演者紹介やら観客の花束贈呈やらが一切ないのが小気味いい。 「教室」「学校の裏手の大井戸」「コンコンサマのお社」「山ん婆の子隠山」「メグがピキを探す森の中」「病室」などたくさんの場面の装置を、基本舞台を少しずつ動かして変化させる一種の抽象装置を多用して転換時間を稼ぐ方式が巧く機能していた。 ブリッジやBGMの選曲は良いのだが、強弱のメリハリが弱いのが気になった。調音室が場内の音の聞こえないガラス張りの部屋の中にあるのも原因かもしれない。 メグがピキを尋ねる道中で出会う山猫バンドのメンバー7人は、授業放棄の荒れる中学生たちだそうだ。しかし彼らはやっぱり何かをやりたかったのだろう。これは教育の問題になってくるけれども、その中学の指導教諭も務める渡辺が、彼らの素朴なロックバンド志向を巧く引き出してこの舞台にはめ込み、ワンシーンだが芝居までやらせ、おまけに舞台装置転換要員までやらせてしまったそうだ。 主宰で作・演出・美術の渡辺貞之は「芝居創りは人間作り」がモットウだそうだ。彼らは素朴に意気揚々と楽しんで働き演奏をしていたそうだ。この子達に手を焼いていた校長はこれを観て驚嘆し、お菓子の差し入れをしたという後日談を聞いた。 11年の集大成にふさわしい、ハートウオームで健康で上品な市民劇であった。 なお出演者名はあまりにも大勢なので割愛した。 |