演 目
映画/レディ・ジョーカー
観劇日時/05.1.7
原作/高村薫
脚本/鄭義信
劇場/サッポロシネマフロンティア


納まりきれなかった三つの物語

 今年の第一弾は、原作が膨大なために映画化が不可能であろうといわれてきた大長編小説『レディ・ジョーカー』の映画化である。
話は三つの大枠に分かれている。
幼いころに大きな衝撃を受けた兄の怨念を受け継ぎ、落ちこぼれの5人組と組んで、日の出ビールの社長を営利誘拐し大企業を相手に壮絶な復讐劇を演じる初老の男・物井清三(=渡哲也)とその一味。
警察の組織の問題。警官という仕事は天職だが、警察という組織は腐敗しているという刑事(=徳重惣太郎)。
社長を誘拐された日の出ビールの、暴力団との癒着とトップのプライバシースキャンダル。
この三つの黒い部分が絡み合う複雑な物語を2時間に纏めたため、それぞれの関連が描き切れず、三つが別々の物語としてその粗筋だけが独立並行して描かれたような感じが強くなって、全体像が俯瞰しきれず、どっちつかずの中途半端な印象が強い。
この映画を通して感じる物井清三の表面的な温厚さ、ラストシーンの、レディと陽ちゃんとのハッピーエンド(クリスマスケーキとレディのただ一回の微笑)の印象と、原作のラストシーンの荒涼とした絶望的な救いのない風景との違和感は、とても同じ「レディ・ジヨーカー」とは思われないほど違うものに感じる。
結局その違いは、制限の少ない「小説」というメディアと、エンターテインメントとしても物理的にもさまざまな制約を背負った「映画」との決定的な宿命の差異であるのか? 映画「笑いの大学」で感じたのと同じような空虚感を感じ、僕が映画より演劇を愛するのもそれなのか? イヤ、映画より制約の強い演劇には、かえって違和感を持つ人が多いのかも知れないと思うと、僕がどうして演劇に惹かれるのか不思議な気がする。