演 目
映画/笑いの大学
観劇日時/04.11.12
脚本 /三谷幸喜
劇場/サッポロシネマフロンティア


誇張が強すぎる

 太平洋戦争が始まる約2年前、1940年春、庶民の娯楽の殿堂・浅草。その浅草の一郭で人気のある喜劇の劇団「笑いの大学」。座付き作家の椿一(稲垣吾郎)は新作台本の検閲を受けるために、警視庁で新任の検察官・向坂睦夫(役所浩司)と始めて対面する。
 今の人は検閲がどういうものであるのか知らないであろうが、戦前から戦中戦後まですべての出版物や映画・演劇の台本まで、最後には一部私信まで検閲を受けさせられたのだ。つまり国策としての戦争遂行のために邪魔になる言論の一切を封じ込めようとしたわけだ。終戦後も占領軍による検閲があって、それは民主主義に逆行する言論を取り締まったわけだ。
 台本の一部修正や削除の部分に真っ赤なポストイットが不気味に貼られて直しを命じられ、応じない場合や作品自体が不適切と認められたときには、出版や映画制作、舞台上演などが、台本の表紙に真っ赤で大きな「不許可」のスタンプ印が押されて公表が出来なくなる。
 もちろん作家としての良心から甘んじて不許可処分を受け入れ、権力との対立を辞さない者もいたが、そういう人たちは治安維持法違反で逮捕される。
 向坂は、前任地の満州で労働者の管理というまったく畑違いの仕事をしていたという堅物で、この歳まで一度も笑ったことがなく、もちろん軽演劇の存在そのものさえ知らない。何の関心もなく、このお国の一大事に笑うなんて不謹慎、出来ることならこういうものはすべて不許可にしてしまいたいくらいだと思っている。事実、向坂は初対面の椿にあらかじめそう宣言する。
 一方椿は、笑いに命をかけた男だ。上演初日が近づく中、向坂の執拗なチエック攻勢に屈せず、指摘通りに毎夜毎夜必死に書き直す。そのうちに椿は妙なことに気がついた。向坂の指摘どおりに改稿するたびに逆に面白さが増すのだ。その例を挙げたいが、それはこの映画に失礼だろう。知りたい人はこの映画を観るべきだ。一つだけ例を挙げると、向坂の、「お国のため」という台詞を入れろという指示に対して、「お国のためなら死をも恐れない」という主人公の恋人に対する告白に、「おくにちゃん」という何の関係もない女性が、突然登場して、「アラ、私のことをそんなに想ってくれているの?」と言う。こういうナンセンスギャグが次々と出て、その度に映画館内は爆笑・哄笑の渦だ。
 このシナリオはもともと二人だけの舞台劇であったが、やはり映画には映画でしか出来ない仕掛け、たとえば当時の浅草歓楽街の賑わいとか、劇場内の雰囲気、そして向坂のプライベートな生活とかそれはそれで大いに楽しめる。
 ラスト、椿の扇動にのって、うっかり一緒にギャグを考える向坂を笑いに目覚めたと思い、同志を感じた椿は長い独白を演じる。作家としての行き方は多様であり、自分はあくまでも笑いにこだわることで柔軟に処し、反権力の生き方を通す意志を告白する。
 向坂は一喝する。自分は国策を全うする権力機構の末端に位置する者だ。そういう思想を持つ者は即刻身柄拘留することも出来る。どうしてもこの台本を上演したいならこの台本から一切の笑いの要素を取り除けという無理難題を命じる。初対面から一週間、うっかり気を許した椿に向坂は本質的な牙を剥く。さてどうなるか? 後は映画を見て欲しい。ヒントだけ言うと、いきなり不許可にはしてはいないことだ。知恵比べを提案していることだ。
 最後のドンデンも含めて、確か舞台には椿の長台詞以降のシーンはなかったと思う。僕には二人だけの舞台の濃密で凝縮されたスリリングで心理的なリアリティの強いやりとりの方が良かったような気がする。映画にはどうしてもリアリティを抜きにした誇張のバカバカしさが面白さのかなりの重点になっているような気がして物足りない。まあ好みの問題かもしれないが……