演 目
すべての犬は天国へ行く
観劇日時/04.6.15
劇団名/劇団イナダ組プロデュース・チータッツ
作/ケラリーノ・サンドロヴイッチ
演出/乙川千夏
照明/高橋正和
音響/奥山奈々
劇場/やまびこ座


寓意性の強い物語

 女だけの、女だらけの19人の西部劇。なぜ女だけなのか? なぜ西部劇なのか? それにははっきりと答えられる明確な理由があった。
 女だけというのは、これらの登場人物たちが自ら排除したとはいえ、結局、己の存在価値の半分としての男の帰還を待つ存在としての女であるということの象徴。それは男を待つ女というだけではなく、ゴドー待ちの含意を持つものである。
 そして舞台が西部劇であるということは、西部劇の世界では命のやりとりが日常茶飯事として、絶対的な価値をもつことに強い違和感がないということ。つまりこの劇は、命をかけた生き方と、その命の賭け方が作り事ではなく納得できる舞台装置として西部劇の世界を設定したのであろう。
 その意味では日本の時代劇でもよかったはずだが、どちらを選ぶかは作家の感性でしかないであろう。
 人間が生きていくということは、ひとつには自分の生命をまっとうさせると同時に、いつも何ものかを期待しているのであり、同時に一つ間違えばいつ致命傷を受けるかわからない。そういう危ふい日常を生きているのだ。
 今の時代、本当に身の危険を感じることがそうそうあってたまるか、というかも知れないが、肉体の危険はそれほど頻発しなくても、精神的な危機や経済的な危ふさを感じることや、実際に崖っぷちに立つことはそれほど稀ではない。
 その危ふさを何とかして逃れようとして、辻褄を合わせるのにアタフタとして生きざるを得ないのだ。そのアタフタの滑稽さが、成り立たない会話の滑稽さとして、客席の苦い笑いを小波のように泡立たせて、芝居は進行するのである。
 最後には、残ったはずの女たちもすべて相打ちで全滅する。虚しい虚無の世界が現れる。そこに救いはないのか? おそらくこの舞台は、全く救いのない虚無の世界を提示して、観客にその応答を求めたのであろうか?
 重い宿題を観る人に求めて幕の降りた2時間15分。根源的な命の営みの意味と、人と人との関係性のありかたを問い掛けられた重い観劇感が残る。
 だが芝居そのものは、湿った重い人間関係の表現と同時に、非常に乾いてズッコケた人間関係をみせて、そういうシーンでは客席から共感の乾いた笑声が度々沸き起こる。
 だからこの芝居はそういう乾いた共感の奥にある人間の動かしがたい暗い情念が必然的に浮き上がってきた芝居なのであろうか?
 エバ(田中玲枝)は、ずっと自分の意思を押し込め存在感の薄い役柄を演じていたと思ったのに、突然不条理に殺人を犯していく。しかもそれが知能の低い我が娘を守るためという少々湿っぽい理由でありながら、そこに一瞬、ひっくり返る狂気が際立って、この母親の暗い情念が、見ているものの背中を冷たくする。
 キキ(福村まり)はぶっ飛んだ演技で、「本当にこんな人居る?」と思わせながら、「ああ、居る居る」と納得させるような不思議な存在感のある人物を造形する。
 クローディア(杉吉結)はいつもお嬢様であり、今日もやっぱりお嬢様、だが今日のお嬢様は身体を張って突っ込むお嬢様が中々魅力的。
 永遠の対戦相手を探すエルザ(小島達子)は小柄な男役でありながら実は女性であり、女言葉を使う不思議な刺客。最後に殺された父の仇を狙う娘であることが判るのだが、この変な役柄を変な男? 女? と引っ張る面白さに応えて魅力的であった。
以下、登場人物が多くて覚え切れない。知っている人たちだけ……