演 目
ぼくのおもいどおり
観劇日時/04.5.9
劇団名/北海学園大学演劇研究
公演回数/ 04.#01公演
作・演出/じゅうどうげんき
照明/八重樫瑞絵
音響/武田のぞみ
劇場/BLOCH


メルヘンに切り込んだ意欲作

世の現状を深く憂えた大作家が、世直しのために童話の世界を書き換えて、それを規範にしようと考え、二人の青年をお供に、ドンキホーテとサンチョパンサのごとく、童話再検証の旅に出る。
 まず最初に出会ったのは桃太郎であるが、彼らの目に映った桃太郎は、臆病で覇気のない過保護の上、太郎などという一般普通名詞のような名前の上に、桃から産まれたから桃などと安易な命名をされただけの、彼にとっては自分というものがない名前である、などと駄々をこねている少年であった。
 おまけに、鬼だって生きる権利のある者たちであり、それを奪う理由などはない、などと鬼が島行きを嫌がっている。
 万事この調子で、浦島太郎はいじめっこの上を行く太郎の身勝手さ、シンデレラは無気力で怠惰な女の子、猿かに合戦では自衛隊の海外派遣の問題、狼と7匹の子山羊、赤ずきんちゃんは両親の留守にボーイフレンドを自室に引き込んでいちゃつき、帰ってきた親に向かって逆切れする女の子、などなど世情を反映した、不道徳で展望のないエピソードが次々と繰り広げられる。
 シンデレラの王子は某独裁国のバカ息子であったり、そのバカ息子に取り入ったり脅したり、日本外交の行き当たりばったりの筋の通らなさが透けて見えたりする。
 それらのエピソードに狂言回しの三人が深く浅く関わりながら物語を大作家先生の思惑通りに進めようと努力したり、あきらめて現状を追認せざるを得なかったり、そのために桃太郎と猿かに合戦の猿を入れ替えようとしてみたり、機知に富んだウイットと策略を見せつつ、軽快に客席を沸かしながら、桃太郎鬼退治のラストシーンへと進む。
 ここで鬼とはバイキングの末裔であるが故に、母国の軍隊の殲滅戦を甘んじて受け入れざるを得ない人たちであり、三人はその心情を察して、彼らを一時退避させ、桃太郎一隊を引き受けて全滅する。
 シンデレラの王子のシーンと、この部分にはもっとあからさまに、現在の世界の危機の現状とはっきりと対比させた方がよかったのではないだろうか?
 夢から覚めた(これもやっぱり夢物語にしてしまった)三人に残されたのは、この大作家の書いた世直しの童話が、現実の子どもたちに全く受け入れられなかったという寂しい現実であった。
 この1時間40分分以上の長編大作を、狂言回しの三人以外は、10人ほどの役者たちがとっかえひっかえ次々とさまざまな役を演じる。そのためすべての演技者は、全身黒子を基本とし、役によってその特徴を表す一枚の衣装を羽織ったり、額に動物の顔をお面のように着けたりさまざまな工夫をする。
 前編才気に溢れた好編であるが、あまりにも手を広げ過ぎたために、核心がぼやけたのではないかという懸念がある。娯楽性を堪能したあとに残るはずの強いインパクトがやや弱かったような気がする。戯曲も演出演技も隙がなく器用に創られているがために、逆に素朴な力強さが足りなかった感じがする。酷な言い方であるが、面白い良い舞台を創っただけに、欲張った願望を出したくなるのである。